5.暗い世界 リシアはなんでもないと頑なに首を横に振った。 しかし、なんでもないはずもない。彼女が朝昼食事つき無賃の仕事に出向いてきた時、服のところどころや肌に泥がついていたのだから。転んだと主張しているが、転んだだけで果たして背側にも腹側にも泥がつくだろうか。しかも近頃はあまり雨が降っていないので地面は乾いている。明らかに誰かの悪意としか思えなかった。 「なんでも、ない。ほんとう」 「でも……」 「きょう、なに、やるの?」 リシアは乾いてきた泥を払い落としながら、尋ねる。 リシアときたら一見気が弱そうだが変な所で頑固だ。ここまで訊いても答えないとなれば、もう無駄な努力なのだろうか。ラナケアはため息をついた。困ったようにリシアを見る。 その時、リシアの肩が不穏に跳ねた。何かに怯えたように。すぐにリシアは視線をそらせたのだが、ラナケアはその前の、リシアの視線があったほうを無意識に追った。 「ケシー」 ケシーが変わらずぶすくれた表情で立っていた。そしてリシアを一瞥すると言い放つ。 「いい気味っ!」 ラナケアは青い瞳を見開いた。 まさか。 「あんたがやったの、ケシー!!」 つかみかかっていきそうな勢いでラナケアは怒鳴りつけた。 ケシーは否定せずにそれを更に怒鳴り返した。 「そいつが悪いんだろ!」 「あんた……っ!」 我慢がならなかった。無意識に拳に力が入る。弟をここまで憎たらしいと思ったのは初めてだった。いっそ一発でも殴ってやった方が効くのではないかと思い、一歩踏み出したその時に、腕を引っ張られた。 今引き止めるのは、一人しかいない。振り返るとラナケアより頭ひとつ分くらい小さな体で引き止めるリシアの姿があった。 「やめて……!そのひと、わるくない!わるくない、よ!……だから、おこらないで!」 ケシーは一瞬息をのんで顔をゆがめた。 「父さんの足、返せよッ!!」 ケシーは言い捨てるように叫ぶとラナケアたちがいる方とは反対に駆け出した。 ラナケアは追う気が起きなかった。リシアの手が腕から離れたその後も。 リシアが緑の瞳にいっぱい涙を浮かべていたから。 謝っても謝りきれないような心境だった。最後の言葉はひどすぎた。それが、事実である分、なおさら。ラナケアも思ったことがないといえば嘘になるようなことだから。 ケシーの気持ちは、わからないでもない。リシアの気持ちだって、わからないでもない。至極微妙な位置に立ちすぎて、どちらをも失ってしまいそうな感覚だった。どちらも失わないで済む方法はないのだろうか。どちらも大切なものなのに。 「……ごめんね」 どうしようもなしに、リシアの頭にぽんと手を置いた。 「ごめんね。ケシーも……悪いやつじゃ、ないんだけどね」 「わかる、です」 しゃくりあげながらリシアが答える。 「おとうさん、こと、だいじ、おもってるから。わたしが、あのひと、わるくした……から」 どうしようもなく、悲しかった。何も出来ない自分は無力だと思い知った。 一緒に泣きたい気分だった。 「さようなら」 あれからリシアはずっと夕食を拒み続けてきた。あの時のことをまだ気にしているらしい。 しかし、今日は、と思ってラナケアは笑みを浮かべた。 「待って、今日は食べていってよ、ね?」 「でも……」 「いいのいいの!母さんもね、いいって言ってくれたから」 そう、ラナケアは粘り勝ちしたのだ。ケシーはずっとしぶっているが、気にするようなことではない。ラナケアが粘ったこと、そしてリシアが日々頑張って働いていたから、フースも折れざるを得なかった。リシアの誠意は伝わっていたらしい。 リシアの顔がわずかばかりかがやいた。 しかし、遠慮からかまだじっとしているリシアの腕をラナケアはひっぱり家の中へ連れて入った。 部屋に漂った橙色の空気は夕食の匂いをまとい、どうしようもなく暖かくそして輝いてリシアには感ぜられた。 しかし夕食の席は重たかった。ラナケア、リシア、フース、そしてケシーで食卓を囲っているのだが、重たかった。 原因はケシー一人にある。家に帰ってきてから、リシアが家の中にいると分かると、とたんに口を閉ざしてそれから一言もしゃべっていなかった。しかも顔があからさまに不機嫌だった。 リシアが困惑しているので、ラナケアはなんとか口を開かせようとたびたび会話をケシーに振るのだが、全く相手にしようとはしなかった。ついにはフースまでもラナケアと同じ事をやりはじめたのだが、結果は同じだった。 リシアはここにいるのが惨めでしょうがなかった。この暗い雰囲気はお前のせいだと方々から訴えかけられていて、いたたまれなかった。リシアは決心したように、手に持った食器を全ておくと、重たい沈黙を破るように、しかし小さな声で呟いた。 「……わたし、いないが、いいみたいです」 ラナケアは慌ててそんなことはないと言おうとしたのだが、ケシーの方が早かった。ずっと彼女がいることを不満に思っていたのだから当たり前といえば当たり前かもしれない。 「そーだよ」 「ケシー!」 フースが、たしなめた。ケシーは今までどちらかといえば自分の味方であった母に止められたと思うとますます顔をしかめた。 「なんだよ!母さんまで悪魔の味方すんのかっ!」 ケシーが恨みがましく、裏切られたとでもいいたげな目でフースを睨もうとした時、がたん、という音がした。 リシアが席から立った。 涙を堪えているのか、下をじっと見つめている。 言葉が、わかるようになったのは、いいことばかりではなかった。 「ありがとう、ました。また、あした、きます……」 聞き取れるか聞き取れないかといった小さな声でリシアは言うと背を向けてかけだした。声なんてかけられなかった。 ケシーは少しバツの悪そうな、しかしどこか当然といったような空気をまとって変わらず椅子に座っていた。 リシアは走った。ようやく、村はずれの大樹へとつながる、人気のない小道まで来た所でようやく息を切らせて立ち止まった。 走ったせいで暑く、涙がにじんだ。そしてそれは止まらなくなる。とぼとぼと道を歩く。 怖かった。怖くてしようがなかった。 自分が悪いというのは痛いほどに分かっていた。人を傷つけてしまったのだからそれは当然なのだとわかっていた。 ラナケアにも、フースにも、もちろん傷つけてしまった本人にも、申し訳ないと思っていた。さんざん自分をなじっているケシーにも申し訳ないと思う気持ちが強かった。 それでも怖かった。 ケシーが、怖かった。 そしてその「怖い」という感情で、またわけのわからない言葉を口走り、あの妙な力を発動させてしまいそうになる自分がまた怖かった。 この力はなんなのか、そして自分は誰なのか。 なにもわからない、真っ暗な自分の世界が怖かった。 全部が嫌だった。 それでも、見放されるのは嫌だから、笑うしかない。明日もまた、なんでもない顔をしてあの家に行かなければならない。 脅迫めいた気持ちが更に心を圧迫した。 |
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